1972年に出版されたエドガー・ルロワの『ノストラダムス、その家系・生涯・作品』 Nostradamus, ses origines, sa vie son oeuvre 88-92頁に手紙のテクストの引用と注釈が見られる。転記されたテクストはレオニのものは微妙に異なる。どういうわけかホラリーチャートは論文に掲載したものを作り変えており、明らかな転記ミスが見られる。1993年の増補改訂版では論文で用いたのと同一のホラリーチャートを採録している。もともと1972年の本は誤植が多く、ホラリーチャートも論文のものを転載できなかったためか、占星術に疎い人が見よう見まねで作成したと推測される。
2007年に出版されたピエール=エミール・ブレロンの『我は何者か、ノストラダムス』 Qui suis-je?Nostradamus 78頁にチャートを含む手紙の写本のコピーを見ることができる。(写真参照)ここに挙げた先行研究を踏まえて状況を整理してみよう。1949年のルロワの論文ではオランジュの当時の時代背景について、1881年L.Duhamelによる『
オランジュの公証人の年代記』 La chronique d'un notaire d'Orange 125-126頁を引用している。1561年、オランジュで宗教暴動が起こった。1561年12月20日夜の8時から9時の間に約300人の武装した男たちが大聖堂教会に入り込んだ。
彼らはすべての祭壇と彫像を壊し、洗礼盤と聖水用の大きな金属容器をも破壊した。 翌日、教会の数々の遺物が焼き尽くされ、フランシスコ会の十字架像が粉砕された。疎開させておいた大聖堂の宝物も盗まれた。 聖体の製造物には、多くの銀が使用されていた。司教座参事会員は、プロテスタントと接触したことのある2人の同僚を疑った。しかし、何も手がかりがなく犯罪者を見つけることができなかった。 そこで彼らは何とかして犯人を突き止めようとノストラダムスに依頼したのだ。教会から盗まれた貴重な銀の聖杯のありかはどこで犯人は誰かを占ってくれというのである。(続く)
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