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ノストラダムスの大事典に「トリノの碑文」という項が作成されている。(
[URL])その記述はきちんとした文献に基づいて手堅くまとめられている。この碑文については様々な関連書で紹介されてきた。今回、このテーマについて考えてみたい。ノストラダムスは1556年から1557年頃イタリア旅行していたようでトリノのとある邸宅に滞在している。当時はアントワーヌ・クイヤールの批判書が出版されたように、ノストラダムスの名声は国内に知れ渡っていた。おそらく世話になったお礼にと銘文を作成したのだろう。1553年のサロンの噴水にラテン語の銘文を要請されたこともあり、別段珍しいこととはいえない。そしてノストラダムスが立ち去った後、記念としてその銘文を翻案とした大理石のプレートを製作して掲げたと思われる。
このプレートの写真が1940年のプランセの本に載っている。注釈には1934年のパリアーノ・コラッドの小論に依るとある。大理石の板に彫られた碑文はモラッゾ地方ミシェレ・レッソンナ通り68番地―古くはヴィラ・ヴィットリアと呼ばれた―にあったという。どの本もソースはパリアーノのようだが、1975年にレヌシオ・ボスコロがエルサレムのセグレ教授とともに再発見している。ボスコロの著書の英訳本"Nostradamus key to the future"(1984)の56a頁にはボスコロが撮影したプレートの写真が載っている。56b頁には、碑文の写真が開かれた本を手にした、ボスコロ本人が碑文のプレートの前に立っている記念写真(?)がある。多分手にしている本はパリアーノの論文が載っている"della Rassegna mensile municipale, Turin"(月刊トリノ市報)なのだろう。
ムー1999年8月号(第225号)の14頁にはプレートのある邸宅とされる写真がある。かなり古い写真のようだがそのソースは不明である。この記事によると、1990年に何者かの手によって持ち去られてしまい現在は行方不明とある。真偽のほどはわからない。実際はどうなっているか、ちょっと気になるところではある。
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