[URL]
早いもので今はもう7月の半ば、折り返し地点を通過している。思えば今年は2009年で例の1999年からはすでに10年の月日が経っている。10年前のこの時期といえば、テレビ番組でノストラダムスの特集を流したり、一見何の関係のない雑誌にもホットな話題ということで取り上げられたりと最後のブームを迎えていた。そして2001年に瞬時にして世界を駆け巡った偽予言を最後に世間ではほとんど話題に上ることもない。たまたま書店の精神世界のコーナーに目を向けてみると、いかにもムーっぽい『消された惑星「冥王星」の黙示録2012』というタイトルの新刊書が発売されていた。そのなかでほんの少しノストラダムスについて触れているが、百詩篇10-72の解釈の再検証といった形でこじつけを行っている。
試しに「ノストラダムス ブログ」で検索すると、実に45000件以上もヒットする。意外にも連日のようにノストラダムスに言及しているブログ記事が公開されている。しかしノストラダムスといえば、未だに1999年の四行詩の解釈とは切っても切れないようだ。自分も10年前に「ノストラダムスの年代記」というテーマで「1999年の詩で何がいいたかったのか」という記事を書いたことがある。基本的なイメージはその時と大きく変わっていない。黙示録でいうところの、神を目の前にしたときの「畏れ」や「恐怖」は、まさに神そのものの属性といえる。ルカによる福音書第21章26〜27節など。このときは聖書学者のW・バークレーによるヨハネ黙示録の注解シリーズを参照した。また真野隆也氏の『黙示録 人と神の出会い』新紀元社 204頁にも、畏敬の念を抱くのは聖なるものの根源に対してとある。
こうした宗教的な考え方は欧米では一般的のはずだが、従来のノストラダムス本のなかであまり見掛けることはなかった。唯一これに近いと感じたのが先日紹介したミシェル・デュフレーヌの注釈である。そこには恐怖の大王が表象するのは、黙示録における恐怖の王(神)とし、あるいは教皇のごとく霊的起源をもつ君主であり、百詩篇6-24に記されていると見る。フランスにフランソワ一世のごとき新王が登場し王位を復活させるという解釈もまあ近い。的中したかどうかは別にしてノストラダムスの真意に近いのではないかと今でも思う。
セコメントをする