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鈴木秀子 死にゆく者からの言葉 文春文庫 2008年7月5日 を読んだ。フジテレビのドラマ『コード・ブルー』のセカンドシーズンが放映されている。救命医療の現場を描いたストーリであるため、毎回死に瀕した患者が登場する。最後の言葉を振り絞りながら息絶えてしまう患者も多い。先週は、冴島はるか(比嘉愛未)の恋人、田沢悟史(平山浩行)が最後に看取られるシーンがクライマックス。人生の最期の死に際でペラペラ話ができるというのはドラマの脚色だろうと思っていたが、最期の言葉を伝えるために一瞬元気になったように見える状態があるという。この本はシスターである著者が出会った、そうした場面を生き生きと描いている。単行本は1993年8月の刊行。文庫化されたのが1996年で手許のものは第6刷というロングセラーとなっている。
この本を読むと、確かに死に直面した感動的なシーンが多くセレクトされている。思わずほろりとする箇所も少なくない。序章では著者が臨死体験で光を見たという。この生命の光に包まれると至福そのもので「愛する」と「知る」を理解する。こういう神秘体験は信じる人には素晴らしい奇跡なのだろうが、どうしても感覚的なものに支配される。論理的に考えると、臨死体験自体が何か人間の潜在的な記憶を引き出しているだけではないか。霊を見たというのも人間の脳内の潜在意識のなせる悪戯と思う。死に行く者たちは自分に死が迫っていることを知っている。そしてこの世に生きた証しとして家族に最期の言葉を残し、憂いを残さず逝きたいと強く念じる。著者はこれを「仲よし時間」と呼ぶ。そういう状況が実際に起こりうるのは事実なのだろう。
病気で療養中の父が亡くなる2日ほど前、夜中に父の亡くなる夢を見た。初めてのことだったしあまりにも鮮明だったので午前2時頃だったか、飛び起きて思わず時計を見たものだ。ずっと会話もできない寝たきりだったが、その時には自らの最期を悟り、何か伝えたい一心で念を送ったのではないか、今ではそう考えている。死の間際に家族に囲まれて最期の言葉を発して満足して逝くというのは、現代社会では贅沢なことになってしまった、そんな気もする。
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