オウムのノストラダムス解釈 に書いた詩百篇10-72の超絶解釈が掲載されている
『マハーヤーナ』No.32(1990年6月・7月合併号)をきちんと確認しておこうと国会図書館で調べ物のついでに閲覧してみた。記事のタイトルは表紙に掲げられた「
速報! ノストラダムスは示す! 予言された天への導き人は私である」と一緒でわずか6頁である。執筆者は麻原本人。確かに
昔これを読んだ記憶がある。そこでは
まず詩百篇10-72のフォンブリュヌ解釈を引用し、冒頭で「
これが私とオウムの登場を予言する詩であることが証明されたのである」と結論を早々に打ち上げる。
原詩をどう解釈すればそういうことになるのか?その前段階で九州地方が大災害に見舞われたのをオウムにひどい悪業を積んできたことへの報いである、なんていうのを恨みがましくたらたら書き連ねている。これですでに3頁を費やした。どうみても自己中心的で身勝手な理屈としか思えないが、この現象を「モーセがイスラエル人と共にエジプトを出る以前、イスラエル人の身に降りかかった災いを思い起こさせた。」そして瞬間的に、今回の現象(1990年6月28日〜7月3日、九州北部豪雨による災害)とあの予言詩(詩百篇10-72)とが結びついたのだという。
1990年新しい七の月
恐怖のない大王が神になる。
神の御使いモーセが甦る。
その前後、軍神が幸運にも統治するだろう。
そしてなぜこのような訳になるのか、とくとくと説明が続く。1990年の七の月とはmoisにeを付けてmoiseとすると「湿った土地」となり七つの県からなる九州の水の災害を象徴しているのだそうだ。フランス語の原文をゆがめてしまうとそれはすでに解釈という範囲から離れてしまい単なる脳内妄想としかいいようがない。さらにトンデモない「恐怖のない大王」というのはeffrayeurのefを否定を表す接頭語と見なしている読み方である。実際に手元の辞書を引くとefface 消えた という形容詞はあるがefがついて否定というのは見当たらない。
精神世界の言葉では「恐怖のない人」とは解脱者ということになる。他にもこういう後付けの理屈を付け加えることで麻原はこの詩に書かれている神とは自分だと声を大にして主張する。新興宗教の教祖のこうした説法はよくあるパターンであるが、これを犯罪に転化して終いには世紀末のハルマゲドンを自作自演しようと目論むこと自体普通では考えられない社会に根付いた深い闇と感じてしまう。この記事の末尾に(付記)オウムのカルマ返し。・坂本弁護士一家の神かくし
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