ノストラダムスといえばペスト治療に従事した医師として知られている。秘書であったジャン・エメ・ド・シャヴィニーの『フランスのヤヌス第一の顔』(1594)に収録された伝記(同書2頁)にはノストラダムスがエクス・アン・プロヴァンスで行ったペスト治療についての記述が見られる。
Arriue a Marseille, vint a Aix parlement de Prouence, ou il fut trois annees aux gages de la cite, du temps que la peste s'y eleua en l'an de CHRIST 1546. telle, si furieuse & cruelle, que l'a descritte le Seigneur de Launay en son Theatre du monde, selon les vrais rapports, qui luy en furent faits par nostre Auteur.
マルセイユに到着してからプロヴァンスの高等法院のあるエクスにやって来た。そこでノストラダムスは三年間その町に雇われることとなった。その時期はペストが発生したキリスト紀元1546年にあたる。それは非常に烈しく苛酷なもので、我等の著者(ノストラダムス)により作成された真実の報告に従った、ローネイの領主の「世界劇場」にその記載が見られる。(筆者訳)
まずマルセイユからエクスまでの移動はどうだったか。Google Mapで徒歩で検索をかけると距離は約30km、時間にすると約6時間半になる。これなら馬を使わなくても同日中に到着できる。「1486年に、プロヴァンスの他の地域とともにフランス領となり、1501年にルイ12世がこの都市(エクス)にプロヴァンスの高等法院(parlement)を設置した。 」(ウィキペディア)というから一応シャヴィニーの記述に齟齬はない。ただし、本当に三年間その町で雇われたのかは疑問が残る。
ノストラダムス自身は1555年の『化粧品とジャム論』(画像参照)の第一部八章(原書50頁以下)においてエクスでペスト治療に当たったときの状況を詳しく書き残している。
そこでは、ペストは五月の終わりに始まり、丸九カ月の間続いた。すべての年代の者が、食べながら、また飲みながら、これまでとは比較できないほど死んでいった。墓地は死体でいっぱいになったので、もはや埋葬するための神聖な場所は見つからなかった。(中略)世界中で、この調合薬以上にペストを予防するような薬は見つからないだろう。これを口に含んでいた者はみな身を守られたのであった。そして終わりころには、これが人々を感染から守ったことが経験から明らかになった。(中略)そこで発生したペストは非常に悪性で激しいものであって、多くの者が、神による罰であると述べていた。というのは、そこから一リーヴ離れたところでは健康だったのである。町全体がひどく汚染されて、感染した者が一瞥するだけですぐ他の者も感染したのである。(中略)患った者に薬を処方して運ばせても、十分に服用されず、口に含んだまま多くの者が死んでいった。(『ノストラダムスとルネサンス』246-247頁、伊藤和行訳を編集した)
1546年にエクスの町でペストが猛威を振るったのは事実のようで息子セザールの『プロヴァンスの歴史と年代記』(772頁B)にも当時の状況について記述している。著作の他の部分ではノストラダムスの伝記を細かく挿入しているにも関わらず、なぜかここでは父親のペスト治療についての言及がない。竹下節子訳はセザールのテクストを一部省略したエドガー・ルロワの『ノストラダムス、出自、伝記、作品』(1993)66頁をベースに簡潔にまとめた形となっている。
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